人材育成の難しさ『東洲しゃらくさし』

@「人材を育てる難しさ」。弟子の才能を見出し、将来を見込んで弟子を旅(都から江戸)に出し、最後に自分の下でその才能を開花させたかった師匠、五兵衛は最後まで弟子の面倒ができなかったことを後悔する。弟子は自分自身で掴んだ道を選択、それは義理を返すことが出来なかった人生である。匠の世界とは別に一般ビジネスを想定すると、如何に人材を育てるかという難局にあう上司の立場かも知れない。「思う通りには部下は育たない」ということかも知れないが、上司は時に厳しく、我慢強く待ち、将来を見据えた変わらぬ姿勢が大切だ。(千里の馬も伯楽に逢わず) 『東洲しゃらくさし』松井今朝子 江戸へ下ると決めた上方の人気戯作者・並木五兵衛。一足先に行って様子を報せてほしい―。頼まれた彦三は、蔦屋重三郎のもとに身を寄せる。彦三に自らを描かせた蔦屋は、顔の癖を容赦なくとらえた絵に息を呑む。彦三の絵を大きく仕掛ける肚を決めた蔦屋。一方、彦三からろくな報せのないまま江戸へ向かった五兵衛には、思わぬ挫折が待っていた―。 「彦三」謎の絵師・写楽である(東州斉写楽)。短期間に百数十種の役者絵・相撲絵などをかき浮世絵の最高峰と称された。最後に深川の郭の部屋で捕物がきた時に発した「もう逃げられぬ。逃げてはならぬ」と・・その後、姿を消した。「彦三」は五兵衛に絵の才能を見出され江戸に下る。ところが奇抜な似顔絵を書かされたことがきっかけで、当時芝居役者等の美人絵が盛んだった江戸に首長絵など奇抜な絵が売れ出した。ところが歌舞伎役者等からの横槍で中止、その後相撲絵などを書くことで大成した。江戸の芝居では「何事によらずわっさりとしたもので、理屈を言うのは野暮と見るのが江戸の気質」であ理、偽りを言えない彦三は芝居役者の偽り絵には向いていなかった。 「五兵衛」は都で名を挙げた芝居の作者であり、江戸でも一旗揚げるべく芝居道具絵師の彦三を遣わし江戸を事前に調べることにした。努力の末29歳で立作者になり所帯を持った五兵衛の浮世狂言は「実」を拠り所して浮世の生半可な「嘘」に仕立てたもので庶民に受けた。そこで、江戸は大阪と違い武家の天下で、お武家は血筋にありさえすれば凡暗でも懐は潤うと江戸での身の生業を重んじて江戸に出ようと考えたのである。ところが身寄りの期待を元に江戸の「嘘」狂言を描いたが都との違いから客入りでは散々な結果をもたらす。最後に自分の思う狂言を世に出し、成功。彦三を再び芝居の絵師として向かいいれようとしたが彦三は自分の道を選んでいた。彦三は五兵衛に対して江戸で出世できたきっかけの義理があったが、役に立たないままとなった。晩年五兵衛は「あまりにも理屈の通らぬ江戸の狂言を、少しは理に詰め込んだものに仕立てたという自負がある。時代の筋の狂言と、世話の筋の狂言を二本立て狂言として興行することを唱えたのも自分である。」